
僕にとって、人生の前半戦というのは、ひたすらに自分のために走る時間でした。
自分のキャリア、自分の家族、自分の楽しみ。視野は驚くほど狭くて、それでいて満たされていると信じていました。ボランティア活動とか、近所の桜並木を守る会とか、地域の雑草を刈るだとか……正直に告白します。そういった活動に、まったく興味がありませんでした。
それどころか、心のどこかで少し見下していたのかもしれません。「他にやることがないのかな」「自己満足じゃないか」なんて、ずいぶんと失礼なことを考えていた自分を思い出します。PTAや少年野球のコーチなんて、もってのほか。自分の貴重な時間を、なぜ見返りもなく他人のために使わなければならないのか、理解できなかったのです。むしろ、そういったものに巻き込まれることへ、一種の嫌悪感すら抱いていたかもしれません。
それが、どうでしょう。
最近、僕の中で何かが静かに、でも確実に変わり始めているのを感じるのです。
芽生え始めた、新しい価値観
きっかけは、本当に些細なことでした。
ある週末、特にやることもなく、近所の公園を散歩していた時のことです。ベンチに座って、子どもたちが無邪気にボールを追いかける姿をぼんやりと眺めていました。その隣では、年配の男性が数人がかりで、花壇の手入れをしています。額に汗を浮かべながら、楽しそうに土をいじっている。
以前の僕なら、気にも留めない風景でした。
でもその日は、なぜかその光景がキラキラと輝いて見えたのです。
「ああ、いいなあ」
心の底から、そう思いました。
子どもたちの歓声が、未来そのものの響きに聞こえました。花壇を整備する人々の背中が、この町の風景を、誰かの日常を、静かに支えているのだと、すとんと胸に落ちてきました。
それからというもの、今まで色褪せて見えていたものに、次々と色がつき始めたのです。
地域の清掃活動の告知ポスター。PTAの役員募集のプリント。少年野球チームのコーチ募集の張り紙。
かつては「面倒なもの」「自分には関係ないもの」として読み飛ばしていたそれらの文字が、まるで僕に手招きをしているように感じられるようになりました。
これは一体、何なんだろう。
自分の持っている知識や経験、時間といったリソースを、自分のためだけじゃなく、社会のため、これからの若者たちのために使ってみたい。そんな欲求が、まるで地下水が静かに湧き出るように、心の中にじわじわと広がっていく。
この感情の正体を探るうちに、ひとつの言葉に出会いました。
心理学者のエリクソンが提唱した「継承性(Generativity)」あるいは「生殖性」という概念です。
これは、中年期における発達課題のひとつで、「次の世代を育て、未来に何かを遺したい」という、人間が本能的に持つ欲求なのだそうです。自分の知識、技術、価値観、そして愛情を、誰かに手渡し、繋いでいくこと。それによって、人は自らの生きた証を感じ、人生の意義を見出すのだと。
「ああ、これか」と、思わず膝を打ちました。
僕の中で芽生え始めていた、あのむずがゆいような、それでいて温かい気持ちの正体は、これだったのかもしれません。
もちろん、急に聖人君子になったわけではありません。
心のどこかでは「急にどうしたんだって思われるかな」「余計なお世話じゃないかな」という不安も渦巻いています。いわゆる「教えたがりおじさん」になって、若者たちに煙たがられたらどうしよう、なんて考えたりもします。
だから、ここでこっそり謝っておきます。
「教えたがりおじさんでごめんね (*´・ω・)」と。
でも、この気持ちは、どうやら僕という人間の、自然な発達段階のひとつらしいのです。
思春期より深刻な「中年の危機」という名のトンネル
しかし、この「継承性」の芽生えは、美しい物語だけで完結するわけではありません。むしろ、それは非常に厄介で、深刻な問題の裏返しでもあるのです。
そう、多くの人が一度は耳にしたことがあるであろう「中年の危機(ミッドライフクライシス)」です。
正直に言って、これは思春期の迷いなんかとは比較にならない、本当の「人生の危機」だと僕は思います。
思春期の悩みは、いわば「何者でもない自分」が「何者にでもなれる可能性」の前で立ち尽くす、希望と不安が入り混じったものでした。未来は無限に広がっていて、道はどこまでも続いているように見えました。
しかし、中年の危機は違います。
ある程度の社会的な立場を築き、家族を持ち、物事の分別もついてきた。それなりに経験を積み、世の中の仕組みも、自分の限界も、ある程度わかってしまっている。
それなのに、いや、それだからこそ、迷うのです。
「俺の人生、このままでいいのか?」
「本当にやりたかったことは、これだったのか?」
「もし、あの時、違う道を選んでいたら……」
目の前には、自分がこれまで歩んできた一本の道がくっきりと見えています。そして、その道の先に続く未来も、なんとなく想像がついてしまう。かつて無限に見えた選択肢は、もうほとんど残されていません。体力は落ち、新しいことを始める気力も、若い頃のようには湧いてこない。
分別があるのに、進むべき方向性が見いだせない。
これは、本当に苦しい。まるで濃い霧のかかった森の中で、コンパスも持たずに立ち尽くしているような感覚です。どこに進めばいいのかわからないのに、時間だけが刻一刻と過ぎていく焦燥感。これは、経験した人にしかわからない、静かで、しかし深刻なパニック状態なのです。
ゆっくり進もう、人生の後半戦
では、この長くて暗いトンネルから、どうすれば抜け出せるのでしょうか。
残念ながら、特効薬はありません。若い頃のように、徹夜で頑張れば、がむしゃらに走れば、すぐに結果が出るような問題ではないのです。
でも、長年生きてきた経験が、ひとつだけ大切なことを教えてくれています。
それは、「本当に大切なことは、好転するまでに時間がかかる」ということです。
風邪をひいたら、薬を飲んですぐに治るかもしれない。でも、骨折をしたら、ギプスが外れるまでには数ヶ月かかります。心の傷や、人生の方向転換は、それ以上に時間が必要なのは当然のこと。焦ってジタバタしても、ろくなことにはなりません。
体力が落ちているのも、決して悪いことばかりじゃないのかもしれません。
無理ができなくなったからこそ、私たちは「ゆっくりやるしかない」と、ある種の諦めと共に、物事を受け入れることができるようになります。
人生の後半戦は、前半戦とは戦い方が違うのです。
スピードや瞬発力で勝負するのではなく、経験に裏打ちされた知恵と、物事をじっくりと待つ忍耐力で臨むステージなのでしょう。
だから、もしあなたが今、僕と同じように「中年の危機」の渦中にいて、出口の見えない不安に苛まれているのなら、まずは深呼吸をしてみてください。
焦る必要はありません。
かつての自分を否定する必要もありません。
あの頃、自分のことしか考えられなかった自分も、紛れもなくあなた自身です。その時間があったからこそ、今のあなたがいて、新しい価値観に気づくことができたのですから。
そして、心の中に芽生え始めた「誰かのために」「次の世代のために」という小さな灯火を、大切に育ててみてはどうでしょうか。
それは、大げさなことである必要はありません。
近所のゴミ拾いに一度だけ参加してみる。子どもに、昔やっていた釣りのやり方を教えてみる。仕事で得た知識を、後輩に少しだけ丁寧に伝えてみる。
その小さな一歩が、あなたの「継承性」を満たし、停滞していた心に、新しい風を吹き込んでくれるかもしれません。
それは、あなたの人生が、新しい章へと進むための「招待状」なのです。
「教えたがりおじさん」、上等じゃないですか。
誰かに何かを繋ぎたいと思えるようになった自分を、少しだけ誇らしく思ってあげましょうよ。
人生の後半戦。
勝ち負けや効率だけではない、もっと味わい深い、豊かな時間を、一緒にゆっくりと歩んでいきませんか。
大丈夫、あなた一人じゃありませんよ。
#ミッドライフクライシス #中年の危機

